ごみはごみばこに。

自分を見つめ直すための過去の振り返り

惰性でいきてる

 

予め言っておくと、積極的にしのうとは思ってはいない。毎日消えたいとは思っているし、突然しぬことになってもいいと思っている。ただ犬が二匹いるから看取ってなからでないとしねないな。どちらも可愛いけれど、シニア犬だから仮に私が亡くなったら引き取ってくれる人がいる保証がない。妹と弟は自分の子だけで精一杯だろうから、おそらく引き取れないと思う。実家にいた時から飼っていたけれど、当時からフード代以外は私持ちだったし。だから、二匹が天寿を全うするまではしねない。その後はどうでもいい。

 

ずっと何処かしらが悪くて病院通いの人生だから、なんだかんだで長生きはしてしまうかもしれない。結婚する気もないし、ましてや子どもを生むつもりもないから、せめて他人に迷惑かけないように個人年金とか積立はしている。万が一のことも考えて、エンディングノートは書いてあるし、一部の積立は私が死んだら妹が受け取り人にしている。死後のことをやってくれるのはきっと妹だろうから。

 

楽しいこともあるし、やりたいこともあるけれど、それより苦しまずにしねるのなら迷わずしを選ぶ。そんなことは現実には起きないし、起きたとしても繋ぎ止めてくれるのは犬だけ。でも、きっと母親と妹は自分を責めてしまうだろうから、じしだけは出来ないな。

 

生きていたいから生きているんじゃなくて、生きなきゃいけないから生きているから、何もなくても毎日がしんどい。

 

はじまりのおわり



◇小学校時代◇

初めてしにたいと思ったのは小学校の頃だったと思う。理由も原因も全く覚えていないけれど、初めて自傷したのは小学生の頃なのは確かだ。鋏で切ったのか、はたまたカッターだったか覚えていけれど、帰り道に一緒に帰ってる友達に、

「その手首の傷はどうしたの?」

と言われた記憶がある。その当時自傷をしているという認識はなかったけれど、よくないことなのは分かっていた。人に知られない方がいいことも。だからその当時も笑って誤魔化した。

「紙で切っちゃったみたい」

今思えば苦しい言い訳だけれど。その日から手首を隠すようになった。幸いにも傷は浅かったから数日後には消えていた。小学生時代で自傷したのはその時が最初で最後だったように思う。両親は不仲だったんだけれど、きっとこの頃からその徴候は出ていたのだと思う。兄弟仲は悪くなかったし、仲の良い友達もいたし、学校が嫌だったとかもなかった。だから、不安定になっていたのは家が原因だったと思う。

虐待を受けていたわけではないし、美味しい食事も食べていたし、お小遣いももらっていたし、誕生日を祝ってくれたし、クリスマスプレゼントだってもらっていた。幸せな家族だったはずなんだけどな。それでも忘れてしまった何かがあったんだろうな。

 

◇ぬいぐるみ◇

幼い頃に両親それぞれから貰ったぬいぐるみがあった。どれも別のタイミングだったけれど、どちらも駄々を捏ねて買ってもらったものだ。去年、人形供養に出すまではずっと一緒に寝ていた。二十年以上ずっとだ。泣いて眠る夜も沢山あったから涙や鼻水で汚れているし、何度も洗っていたからボロボロだった。妹にはお姉ちゃんの念が籠っていて、見えなくても毛布の下に(ぬいぐるみが)いるのが分かると言われていた。確かに色んな感情がそにぬいぐるみたちに入っていたような気がする。自分でも何故このぬいぐるみたちに執着していたかは分からないけれど、きっと両親から私はちゃんと愛されていたんだと思いたかったのかもしれない。供養に出せば気持ちに変化があるかと思ったけれど、全く変わらなかった。

 

◇中学校時代◇

中学時代の記憶も曖昧だ。この頃から家庭内で不穏な空気が充満していった。元々父親と母親の仲は決していいものではなかったけれど、口喧嘩が増えていったのもこの頃だ。同じく父親が私たち兄弟が母親のことを「ママ」と呼ぶのを禁じた。父曰く、

「母親失格だから」

会話に出すことがあったら、「あの人」呼びだった。勿論父親がいない場では変わらず「ママ」呼びだった。「あの人」呼びが嫌で段々話題を避けるようになっていった。

学校では部活も入っていたし、友人関係も問題はなかった。一部男子に嫌がらせされたりもしたけど、私だけではなかったからそこまで気にはしていなかった。小学生の頃から少年漫画は好きだったけれど、部活や友人の影響でますますハマっていった。二次元のおかげで今までなんとか生きていけてると言っても過言ではないかもしれない。苦しい時は毎回二次元の世界へ逃げ込んでいたから。友人関係で忘れられないのが二つある。

後述するけれど、この頃から母親は鬱っぽくなっており、お弁当は作ってくれても中身が一段目にサンドイッチ、二段目にチーズが二切れの時があった。それを友人に見られて笑われたのがショックだった。私もおちゃらけて笑って返していたけれど、内心泣きたくて仕方がなかった。

もう一つが友人が何気なく言った一言だ。

「(私)は卵みたいだね。殻は厚いのに中は空洞なの」

意味が分からなかったけれど、すごくドキッとした。自分の心に重い鎧を被せているけど、中身は何もない、というより弱い自分を隠している。心の距離を詰められるのが怖かった。その頃から話すより、聞き役になるよう心掛けた。下手に喋ってボロを出したくないから、弱い自分を見せたくないから。

この頃から自傷癖がついていた気がする。私服の時はリストバンドをしていた記憶があるから。バレたくないけれど、我慢が出来ないから半袖の時も極力手首が見られないようにして過ごしていたように思う。

 

◇高校時代◇

この頃は一番情緒がえぐかったように思う。楽しい思い出も嫌な思い出も沢山あった。友達は沢山出来たし(今も続いている子はいないけれど)、勉強も楽しかったし、バイトも楽しかった。放課後友達とカラオケ行ったりしたのも楽しかったな。その反面高校でも一人変に絡んでくる男子がいて、精神的にやられて保健室に行くことも多かった。話を聞いてくれたり、仮病なの丸わかりなのに保健室にいさせてくれた保険医の先生には感謝してる。たまに保健室でお弁当食べていたのだけれど、そこで自分の好きな雰囲気の先輩もたまに来ることを知って、途中からその先輩に会うために行ってたけど。結局一回も話しかけられなかったけれど。この頃にはもう父親と母親は別居していた。私たち兄弟は金銭面のこともあって父親の方へ着いて行った。父親の仕事も順調ではなかったから、バイト代は半分家に入れていたし、家事もして、様々な支払いが遅れた時は学校帰りに直接市役所や水道局に払いに行っていた。長女だから仕方ないけれど、常になんで私ばかりとは思っていた。高校の時に持病が発覚して三回位入院もした。入院三回目の頃は父親が信用取引で大損して家計が厳しかったのもあって、入院費はほぼ自分で支払った。勿論バイト代半分家に入れていたから、一括で払えるわけもなく、恥を忍んで分割支払いをお願いした記憶がある。すごく恥ずかしくて、すごく惨めだった。通院費も出してくれた時もあるけど、大部分は自分のバイトで賄って、たまに母親が着いてきてくれたときは母親が払ってくれた。状況が状況なのは分かってはいるけれど、自分の命は大したことないんだなって思っていた。毎日三回かなりの服薬をしていたんだけれど、慣れないから飲み忘れることもあって、苦しくなるとその分纏めて飲んでたりもした。睡眠薬とかではないからODしてる感覚はなかった。でも、さすがに頭クラクラしたりはしていたかもしれない。この頃には自傷が常習化していた。夏は半袖やプールでバレてしまうから、横腹を切ったし、プールが終われば腕や太腿を切った。長袖の時期になれば手首で、傷跡は残ってしまうから腕時計や髪ゴムつけて目立たないようにしていた。紐で首を絞めてみたりしたけど苦しくて止めた。弟が盲腸で倒れた時も、救急車呼んで、病院まで付き添って、入院中暇だろうから毎日お見舞い行って漫画を持って行ったりもした。そういえば弟が社会人になった時に、お姉ちゃん孝行するね、って言われたけど全くされてないな。別にいいけど。勢いがあればこの頃にしねたかもしれないのにな。今でも後悔している。

 

 

 

 

振り返ってみると、楽しい思い出も沢山あるはずなのに、苦しい思い出の方が鮮明に覚えている。忘れてしまいたいのに忘れることができない。気にしてない、と言えればいいけれど未だに引きずっている。私より大変な人なんて沢山いる、命の危機を感じたことのない私の悩みなんて些細なこともかもしれない。何も考えたくない、何も感じたくない、だから消えたい。この世に迷惑をかけない死に方がないから、生きているけどいつしんでもいい。せめてしぬ時くらいは役に立ちたいから、臓器提供は全部丸にした。本当は献血骨髄バンクも登録したいけれど、持病持ちだし、服薬しているから対象外だった。なんで生きているんだろうね。